第230回
人を支配することなんか出来ない
支配するなんて、すごいことに思えますが、あくまでも心理学的な話です。
支配するというより期待するということなのだろうけど、
その期待が大きいあまり、相手の自由な行動を阻害したり、
自分に都合の良いほうに誘導してしまっているとしたら、それは支配ということになります。
期待しているほうは、別に悪意で支配している訳ではないのです。
むしろ、良い方向へ導き出すための援助のつもりだったりします。
実際、相手のことを思ってしているつもりなので、
こうして支配するなんて言われてしまうと滅入って自己嫌悪に陥りますが、
冷静に考えると、やはり自分の考えの押し付けなのかと反省することが多いような気がします。
心理学的に援助するとは、相手を変えることではなく、
相手の自由な考え方を妨害するものから守り、
どのような結論に導かれてもそれを助けることと定義されています。
ですから、必ずしもその結論が自分の期待に合わないとしても、それを否定してはいけないのです。
もし、自分の期待と違う結論が出たとすれば良い共同体感覚が築けていないということです。
無理強いすれば余計にそれは援助ではなく支配ですから、一層関係は崩れるのです。
テーブルの上の熱いコーヒーカップを子供が触ろうとしたとき、
「○○ちゃん、触ると熱いわよ。」と言うのは援助か支配かと本は問いかけていました。
やけどをすると悪いので、注意している訳ですから援助だろうと考えたいのですが、
その発言の裏にある、もしコーヒーをこぼしたら大変なことになるから、
出来たら触らないで欲しいという気持ちを否定できないとしたら、
そこに目的のすり替えが行われていて、
子供の行動に対し、やけどをするぞという恐怖の刷り込みを行っているというのです。
結果として子供はカップに手を掛けずにいたとしたら、それは支配であると言っています。
子供は熱いものを触りたかったのではなく、コーヒーカップに興味を示していますから、
他のコーヒーカップを与えて、飽きるまで触らせることが援助になるのだそうです。
コーヒーカップに満足し、もうテーブルのカップに興味を示さなくなれば、
それはお互いの目的が一致し、共同体感覚が生まれたことになります。
しかし、それでもテーブルの上のカップに興味を持つのであれば、それを否定してはいけない。
結果としてコーヒーをこぼしたとしても、その時に学習することもあるだろう。
掃除をするという負担が発生しても、それがどういうことかを示すことで
子供に考えることがあったとすればそれは良しということだそうです。
それにしても、掃除をするときの行動だって、注意しないと暗黙の支配になりかねません。
難しいですね。
あまり考えてしまうと、言葉を選ばなければならないし、会話が億劫になってしまいそうです。
人を支配することなんて出来ないことぐらい理解していますが、
期待してもいけないようなら、その共同体感覚は最低なのかな?
もうちょっと勉強しないと、この議論の結末は見えてきません。
でもこの議論には絶対的優位が前提なのかな?
親と子の関係ではなく、対等な関係だったらどうなのでしょう?
同じように相手だって期待(支配)しているということでしょうか?
していないとしたら対等な関係を築けていないということでしょうか?
平等といいながら暗黙の優位性が存在するのでしょうか?
リーダーシップとはどういうことなんだろう?
昨晩から考えていたのですが、どうも良く分からない。
なんだか、哲学者になってしまいそうです。
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