第26回
高齢者疑似体験装置の功罪
福祉教育や健康福祉フェアなどで一度は車椅子や
高齢者疑似体験装置を体験したことがあると思います。
それらの体験を通して感じることは多いでしょう。
純粋な人ほど疑似体験を通し、よりいたわりの気持ちを強くします。
その方向性には間違いは無いと思います。
ただ、その純粋さが理解力を妨げることもあります。
健常者が疑似体験をすると
関節が思うように動かなかったり、手足が重い、感覚が鈍る
まわりの風景が黄濁化してよく見えないなどと感じるでしょう。
そして高齢者はなんて大変なのだろうと理解します。
でもどうでしょう?
そのとき感じている大変さは健常である自分との比較です。
人間の体は成人した後、日々老化しています。
私は今41歳ですが、
医学的に見ると眼の調節力は30歳の約半分になっているそうです。
30歳のときに40歳疑似体験装置を経験したら
きっと40代の自分に悲観してしまうでしょう。
しかし、今 私は自分の人生をちゃんと楽しんでいます。
年を重ねるとともに人間は老化しますが、
人生はワインのように芳醇になっていくものです。
良い人生を過ごした人はそんなに悲観して生きていないでしょう。
ただちょっとガタついてきたかなって思っているだけ。
なのに周りが異常反応してくるのはむしろ心外ではないのでしょうか?
高齢者疑似体験装置はもっとクールに利用しなければなりません。
人の老化に伴う障害は、住環境的に補う方法がいくつかあります。
その検証のために実際の高齢者の意見を聞いたり、装置をつけます。
あくまでもその目的は検証に過ぎません。
疑似体験装置だけで高齢者を理解しようとしてはだめなんです。
小学生たちが福祉教育として施設交流を行っていますが、
これなども教師が正しく意味を理解していないと、
相手の意向を無視した単なる「慰問」になってしまったり、
子供たちの正しい理解をねじまげてしまいます。
物事をあまり特別視しないことです。
時として感情が前面に出てしまい、
自己完結的な結論を導き出してしまいます。
ちいきで支える福祉は別に特別なことをすることではないのです。
当たり前に人がちいきで生活できることが目標です。
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