第215回
生活するということ
仕事人間は往々にして生活するということを忘れてしまうような気がします。
20代の頃は景気が良くて、仕事に接待にと忙しい毎日でした。
当時はそれが自分のライフスタイルだと思っていましたし、疑問にも思っていませんでした。
でも、当時の私は料理なんて何も出来なかったし、米を炊くことすら出来ませんでした。
日々、生きている分には何の不都合もありませんでした。
朝は食事を取る暇はありませんでしたし、昼は外食
夕方は残業でカップ麺を食べるか、接待で飲んだくれていました。
仕事はやりがいがあったと思うし、面白かったので時間はあっという間に流れます。
疑問に思う暇も無かったでしょう。
忙しいという言葉はある意味誇りでもあり、
仕事以外のわずらわしさから逃れる都合の良い理由でもありました。
給料は上がり、物質欲は満たされましたが、
その分、大切なものを失っていたのに気が付いていなかったのかもしれません。
精神状態の平衡を保つために、失ったものを物で埋めていたのかなと今になると思います。
あの時代が悪かったというつもりはありません。
今まで知らなかったことも知ることが出来たし、今時分があるのもこうした時代があるからです。
でも、やっぱりいろいろ失ってきたかな?
今も仕事がそれほど暇になったという訳ではありませんが、
心の平衡を保たせるには、外食や物質欲に限界が見えてきました。
ネットワークを始めて、いろいろな人と付き合い、
あらためて住環境を考えることが出来ました。
生活者であるということは重要なのだといまさらながらに実感しました。
私に料理をする楽しさを教えてくれた子がいます。
いままで調理済みしか知らなかった私に素材から作る喜びを教えてくれました。
料理が出来るようになると、それに関連したいろいろなことができるようになります。
いまさらながらに私なりのスローな生活という訳です。
普通の生活です。
誰だってやっていること。
やっと人並みになりました。
以来、私は努めて「忙しい」という言葉を使わなくなりましたし、
生活することを自分の価値観の第1にしました。
その価値観によって、自分の設計や福祉住環境整備という課題が達成できることが分かるからです。
建築設計のがちがちの技術者であるより、まずは生活者のプロでありたい。
きちんと足の付いた生活とお互いを思いやれるパートナーが居て
心の平衡を保つことが出来て、
はじめて多忙な毎日も安定して行えます。
そして生活するということもそれなりに努力が必要ということも理解できました。
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